のどに魚の小骨が刺さっている。
オーストリアGP後、グラーツでの出来事だ。
取材を終えてグラーツ空港でレンタカーを返却し、電車でグラーツ市街に向かった。しばらくグラーツに滞在する予定だったのである。
8月のオーストリアは暑く、日差しが強かった。レースウィークの取材で蓄積された疲れもあって、スーツケースを文字通りに引きずって空港最寄りの駅にたどり着く。ホームには誰もいなかった。
レッドブル・リンクにいちばん近い大都市であるグラーツは、オーストリアでは第2の都市として位置付けられているのだけど、開けた場所にある空港は思ったよりもずっとこぢんまりとしていた。空港内レンタカー会社のカウンターに行列はないし(おかげで、カウンターの中の人もいなかった)、空港内に人影もまばらだった。きっと便数がそれほど多くはないのだろう。
閑散とした空港内を思い出しながら、駅のベンチに腰掛ける。時刻表とスマホの情報を繰り返し確認して、これから乗る電車と降りる駅名を確認する。どれだけ疲労困憊でも、この確認だけは怠れない。ヨーロッパでは時刻表通りに電車は来ないし、直前にホームが変わることもあるからだ。
「ふう……。暑いなあ」
スマホを置いて目にまぶしい青空を眺めていると、おばあさんがゆっくりとホームにやって来るのが見えた。杖をついている。すっかり曲がった腰に、かなりの高齢だろうと思う。よたよたと頼りなく歩きながら、おばあさんは時刻表の前に立ち止まった。
「あのう」と、彼女は言ったのかどうか。なにしろこちらは、ドイツ語がわからないのだ。
「グラーツに行くには、どの電車に乗ればいいのかしら?」
根気よく話を聞いていると、そう尋ねているのだとわかった。スマホの翻訳アプリで会話を試みるが、目が悪くてスマホの文字が見えないという(と言っていた。たぶん)。まったくその通りだ。どうしてそんな簡単なことに気が付かなかったのだろう。
四苦八苦して「グラーツに行くなら、わたしと同じ電車に乗れば大丈夫ですよ」と伝えると、おばあさんは安心したように頷いた。きっと伝わったのだ。よかった。それにしても、とても暑い。
やがて、大きな音を立ててグラーツ行きの電車がやってきた。まるで装甲車のような武骨さである。いかつい電車は、停車すると建付けの悪そうな音を立ててドアを開けた。ひどく重たいスーツケースを引きずり上げて、電車に乗り込む。中は広い。
おばあさんは……どうしたことか、ドアの前で立ち止まっているではないか。
「グラーツ? グラーツ?」
おばあさんは開いたドアの前で、そう繰り返している。「この電車はグラーツに行くんだよ!」と叫びたいが、ドイツ語がわからない(なぜわたしはドイツ語ができないんだ?)。言葉に詰まる。懸命に右手で車内に入るようゼスチャーをする。それでもおばあさんは、「グラーツ? グラーツ?」と繰り返している。ああ、宿命的な音を立ててドアが閉まる……なぜ、わたしはドイツ語ができないんだ?
ガコン!
若い女性がすっ飛んできて、ドアを開けるボタンを押した。きっとオーストリア人だろう。彼女はおばあさんを車内に招き入れる。おばあさんはその女性と話しながら、彼女の隣にちょこんと座った。おばあさんは、グラーツに行けるのだ。
今でもたまに、あの日のことを思い出す。
叫びのように「グラーツ? グラーツ?」と繰り返していた老婆。立ち尽くすだけだった自分。一人の老婆を手伝うことができなかったわたしは、あのときいったいどうすべきだったのだろうと考える。これまでの旅で、わたしはたくさんの人に助けられてきたというのに。
それは魚の骨のように、今でものどに刺さり続けている。



























