海外を旅しているという感覚が、とても薄い。
MotoGPの取材のために1年の半分を海外で過ごすようになって、2年目である。ぶらりとパリの街を歩いていて、ふと「わたしは果たして、海外を旅しているといえるのだろうか?」という疑問が浮かんだ。スペインGP取材を終えてフランスに移動したあと、半日だけパリを観光していたときのことである。
確かに、ヨーロッパに来てはいる。そこは日本ではない。この紀行文だって、ブルガリアで書いている。日本を出てヨーロッパに来てみれば、コンビニエンスストアはないし、電車は時間通りに来ない。むしろ、時刻表がどこにあるのかわからない。日本語はもちろん通じないし、歩いていると、当たり前のように何度もお金をせびられる街もあった。
チェックイン時間に10分遅れたらホテルのチェックインを拒否されて(事前に遅れることを伝えていたけれども)、深夜23時のイタリア・ミラノで途方に暮れたこともある。ちなみにこのときは、深夜にチェックインできるホテルを予約しなおして、アプリでタクシーを呼び、ホテルまでたどり着いて事なきを得た。こういうときに、安全をお金で買うことはとても大事だ、ということは経験が教えてくれる。などなど……。
指折り数えてみれば確かに海外にいるのだが、しかし、その実感が薄いと言ったほうがいいのかもしれない。
MotoGPの取材となればサーキットとホテルの往復だけで終わる。レースが終われば、仕事のために文字通り、ホテルに缶詰めになる。それが終わると移動して、移動先でまた仕事のためにホテルにこもる。以下、繰り返し、繰り返し。どの国にいようと、どの街にいようとも。
パリの街を歩いていて、唐突に「見てこなかったものが多すぎる」ことに気が付いた。
時間があまりなかったから(それをとても惜しいと思った。昨年だって「来年こそはパリをちゃんと観光しよう」と思ったのに)、凱旋門とその周辺のバイクショップが集まるエリアをぐるぐると歩いてから、モンマルトルに行った。メトロの階段を上がって地上に出ると、坂を上ってサクレ・クール寺院を目指す。メリーゴーランドがある公園に入ると、芝生にはサンドイッチを食べたり日光浴をする人たちがたくさんいる。芝生は坂になっていて、陽光を浴びるのにぴったりだった。
脇の階段を上がっていると、弾き語りの音楽が聞こえてきた。オアシスの「Wondarwall」だった。すっかりうれしくなって、口ずさむ。たくさんの人が、彼の歌を聴いていた。歌を知っているのかどうか、幼稚園くらいの子供たちが、その近くにぎゅうぎゅうと座っていた。きっと遠足で来たのだろう。
丘の頂上に立つサクレ・クール寺院の階段に座って、パリの街をぼんやりと眺めていた。そこでは時間が少しぼやけたように流れていた。見てこなかったものへの少しの後悔は確かにあった。けれど同時に、そういう時間の過ごし方を、愛おしいとも思った。